第二章 塩の作り方を知っていますか 211

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第一節 安寿と厨子王も知っている揚浜式塩田

 私達日本人の祖先は、塩を手に入れるために大変な苦労をしました。日本には岩塩層は存在しませんし、塩が堆積した塩湖もありません。また雨が多く降るために海水を田に引き込んでも、太陽と風の力で自然に塩を作るわけにもいきませんでした
  ですからいくら海岸付近に住んでいても、海水は簡単に手に入れることは出来ても、塩
簡単には手に入れることが出来なかったのです。海水の3%の塩分をどのようにしてにするかの知恵の出し合いで、いかにエネルギーや労働力を少なくして、海水を塩にするかの試行錯誤の連続でもありました

  海水をただ煮詰めて塩にするには昔なら薪が、現在なら重油が大量に必用となります。その理由から先ずは海水を出来るだけ太陽や風のなどの力で濃縮して、その濃い海水を釜で煮詰めて塩を作る、二段階での
製塩方法を工夫したのです
  さてここからは製塩の歴史についてお話しましょう


   アラスカ、カナダ、グリーンランドに住む先住民を私達はエスキモーと呼んでいました。「生肉を食う人」の意味があるので差別用語だと言われるようになり、今ではイヌイットと呼ばれたり、自称したりしています。彼らが狩猟生活していた時の毎日の塩摂取量は、日本人の三分の一以下だったと言われています。私達の祖先もやはり彼らと同じように、動物の肉や血から自然に塩分を補給していたようです
  縄文時代になりますと、土器を直接火にかけて、海水を煮詰めて塩を取りだしていました。しかし土器自体が厚いため、熱効率が大変悪くて大量のエネルギーが必要でしたし、出来た塩の品質は粗悪だったようです
またよく土器に亀裂が出来て、割れて失敗することも多かったようです


   奈良時代になりますと「藻塩焼き」よる 製塩方法が普及します。百人一首に「来ぬ人を まつほの浦のゆうなぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」と藤原定家が詠んだ歌がありますように、藻塩焼きによる製塩が各地で行われていたようです。この藻塩焼きによる製塩にはいろいろな諸説がありますが、その一つを紹介しましょう
。「海藻のホンダワラ類を乾燥して積み重ね、この表面に付着した塩に海水を注いで、鹹水(かんすい)すなわち濃い塩水を採ります。それを土器に入れて煮詰めて塩を求める」、これが当時の最先端の製塩技術だった言われています
  このような塩作り
に興味がある方は、毎年七月の四日から六日にかけて行われる、宮城県の塩釜市にある鹽竈神社(御釜神社)で、「藻塩焼き神事」を見ることが出来ます。

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   そして平安時代には「揚浜式塩田」と呼ばれる製塩方法が始まります
  皆さんは「安寿と厨子王」の話をよくご存じだと思います。人買いに騙され、山椒大夫に買われた兄の厨子王と妹の安寿の悲しくせつない物語です。荘園の奴隷として買われた妹の安寿は海へ潮を汲みに、兄厨子王は山へ柴刈りに行くのが仕事でした
  当時は大変貴重品であったために、海辺の荘園の主である荘官達は、奴隷などの安い労働力を使って塩作りを盛んに行っていたのです。安寿の潮汲みの意味ですが、塩を作るために海辺まで行って海水を汲むことを意味していました。また厨子王の仕事の柴刈りは、塩を作るときに大量の柴、すなわち薪が燃料として必要でしたから、柴を刈るために山で働かされていたのでした


   揚浜式塩田は海岸より高いところに作り、粘土を敷きつめた上に砂を撒き散らします。海岸で桶に汲んだ海水を塩田まで人の力で運び、砂の上に撒く事を繰り返してやります。
  そして風と太陽の力を利用して、砂に充分塩分を付着させてから
*1沼井に集めその上から海水をかけて砂の表面の塩分を洗い落して、濃い塩水を得るのです

 

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