第二章 塩の作り方を知っていますか 221

洗い落とした砂は塩田の表面に戻して撒きちらします。これを繰り返して集めた濃い塩水を鉄釜や石釜に入れ、煮詰めて塩を結晶させるのです
  簡単そうに見えますが多大な労力が必用で、人、人、人の人海戦術が必用だったのです。また大量の薪を必用としていましたから当然周辺の山は禿げ山となり,いまなら環境が悪化するとして大問題になったと思われます。また冬場や天候の悪い時は
製塩が出来ませんでした


   石川県の金沢、能登への旅行や、加賀、能登の温泉郷での湯治などの機会があれば、全国ではここにしかない角花家の揚浜塩田が現在も存続しています。当時の方法で製塩を行っていますので、是非立ち寄ることをお勧めします(冬季は閉鎖) 

*1沼井・昭和の頃の沼井はコンクリート製で、塩が付着した砂や石などを集め、海水をかけて濃い海水を作る濃縮装置、当時は木の箱


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 土木技術の発達とともに室町時代の終わり頃から、入浜式塩田による製塩始まります
  まず塩田に砂を敷きつめ、溝を碁盤の目のように塩田の周囲に掘ります。そして潮の干満差を利用して海水を溝に導入してやると、塩田の地盤下にまで海水が浸みこます。
塩田
の上から海水を撒いてやると、毛細管現象よって塩田の表面に海水を導くことが出来るのです。
  揚浜式塩田と同様に、塩が充分付着した砂を沼井に集めて上から海水をかけて砂の表面の塩分を洗い落します。そして出来た
濃い塩水を平釜などで煮詰めて塩を得るわけです

  潮汲み、そして汲んできた海水を塩田に撒く重労働からは解放されました。それでも塩作りはたくさんの労力
とエネルギーを必要としていたのです
  昭和30年頃には製塩方法が改良され、流下式塩田と呼ばれる方法に転換しました

 

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   海水をポンプで汲み上げ、*2流下盤と呼ばれる土地の上部から下部へゆっくりと海水を流してやります。この流下盤上から下までくだる間に海水は太陽と風の力で、水分の一部が蒸発されて、少し濃くなっています

  更に海水を濃くするために、枝条架
(しじょうか)と呼ばれる内部が笹や竹を束ねて傘状にしたものを、上から吊した立体の海水濃縮装置を使います。ポンプで先程の少し濃くなった海水を枝条架の上部まで汲み上げて、上からゆっくりと流してやります。風の力で濃い海水が出来るわけです。この枝条架での濃縮を何回か繰り返して、海水の五~七倍程度までの濃さにしてやるのです。そしてこの濃い海水を平釜や立釜などで煮詰めて塩にします

  冬場でもまた夜でも濃い海水を作ることが出来、また海水のまま蒸発濃縮を繰り返すために砂を運搬しなくてもよくなり、大幅なコストダウンにもつながったわけです
  この枝条架併用流下式塩田は珍しい物でなく、当時瀬戸内地方に住んでいたり、旅行したりした人は大抵見たことがあるものです。しかしこの流下式塩田が盛んだったのは昭和
46年までで、それ以降塩田は国策により廃止され、その跡には石油化学工場や石油の精製工場や製鉄所などが進出しました

*2流下盤・・傾斜勾配が少しある田に粘土やビニールを敷き、その上に砂利を撒いた塩田 

第二節 自然塩運動がおきる 

   では塩作りはどうなったのでしょうか。流下式塩田製塩は入浜式塩田製塩より、大幅なコストダウンには成功しました。しかしそれでも輸入塩(*3天日塩)と比べると値段に大きな開きがありました。将来展望として、輸入塩(天日塩)と国産塩が競争するためには、どうしても流下式塩田では対抗できないことが分っていました。また専売塩事業では慢性的な赤字を計上していたのです
  当時日本は高度経済成長と呼ばれる時代で、諸外国にも例を見ない急速な経済成長を成し遂げ、瀬戸内地方はおろか日本各地に化学工場や製油所、石油化学コンビナート、
鉄鋼コンビナートなどが臨海部に進出していました

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